映画『万引き家族』を観た感想(カンヌ映画祭のパルムドール受賞作)
2018年の第71回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を獲得した映画『万引き家族』を2020年になってようやく観ました。是枝裕和氏が監督、脚本、原案を手掛けた作品です。前半はネタバレ無しでいきます。
もくじ
概要
タイトル | 原題 | 初公開日 | ジャンル | 時間 | 国 | rating | 制作費 | 売上 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
Shoplifters | 万引き家族 | 2018年6月8日 | 群像劇 | 121分 | 日本 | 12歳以上対象 | 約80億(7690万ドル) | 是枝裕和 |
あらすじ
東京の下町のとある古びた家で暮らしていた"一家"は、本業の傍ら万引きを繰り返して生計を立てていました。
ある寒い日、治と祥太はスーパーで万引をした帰り道に震えている幼い女の子を連れ帰り、一緒に暮らし始めます。
面白い、けど最初に我慢が必要
私は最初、途中で観るのをやめてしまいました。
- 大きな進展がなくてだるい
- 話が見えてこない
- 演者が何を言ってるか聞き取りにくい
というのが正直なところです。その後もう一度途中から見始めました。
最初の20分が我慢できるかどうかというのがポイントです。私は観るのをやめたのは17分くらいでした。
最初に黙々と"一家"の様子を映しているような感じで、説明的でありながら、でも実際にはその説明は後回しになっているので「何を観せられてるんやろ」という気分になってしまったんです。前提や設定を視聴者に解らせるために時間が掛かっていて、スロースターターという感は否めません。
結局、最後まで話は見えない
後半になると、加速するように布石がすべて回収されて話が急展開します。そこは面白かったし、途中からは時間が過ぎるのがとても早く感じました。
でも最終的な結末は結局のところイマイチ見えてこない。「映画=明確な終わり方をしなければならない」とは決して思いませんが、その終わり方はどうなんだろう?というのが正直なところ。それについて考えてみました。
以下からネタバレを含みます。
ネタバレを含む考察
これは監督に伺ってみないとわからないことではありますが、端的に言うと監督の主張はこういう問いでしょうか?
子供は皆生まれさせられた(親を選べない)
本当の家族って何?
作中では、裕福だろうが貧乏だろうが血が繋がっていても不幸な家庭がある一方で、他人の寄せ集めである万引き家族が貧しくても仲良く暮らす様子が描かれています。また、信代は一連の罪をすべて請け負う自己犠牲をしてまで"家族"を守っています。また、りんを庇うためにクリーニング店を自ら辞めます。
でもお母さん、お父さんとは呼ばれない
もっとこの作品がシンプルだったら上のような話で説明がついたと思うんですけど、合点がいかないところがあって未だに整理がついていません。
りんが翔太のことをお兄ちゃんと呼んでも、治や信代のことを最後までお父さん、お母さんと呼ばなかったこと。
亜紀がまともに家族としての呼び方をしていたのは「おばあちゃん」だけで、信代のことを「お姉ちゃん」と呼んでいなかったこと。
翔太が治のことをお父さんと呼べないのはどうも恥ずかしいからだという描写があるのでまだいい。ラストのバスの中でも小さく「お父さん」と呼んでいるように見えますから、最後まで治のことをお父さんと思っていたようにみえます。
でも信代と亜紀が親子の設定なのかと勘違いしたくらい曖昧というか関係がイマイチ見えない。
また、家族全体として、血の繋がりを隔ててもそれ以上の関係が築けるという話であればそういう描写があっても良いと思うし、もっと言うと、それを主張したいのであれば「裕福で血が繋がってて幸せな家族よりも更に幸福な描写」がなければどうしても説得力を失ってしまうと思うんですよね。
わざと捕まった
翔太は治との別れ際に自分はわざと捕まったのだと言います。何かを確かめたくてわざと捕まったとして、あんな怪我を負う捕まり方をする必要があったでしょうか。また、仮にそれが偽だったとして、そんな嘘をつく必要性がどこにあるんでしょうか。腑に落ちない。
亜紀とおばあちゃん
警察から聞かされた情報として「おばあちゃんはお金目当てで自分に近づいた」のだと思い(実際にそうだったかは別として)、治らが遺棄した場所を証言することで事件が明るみになります。つまり家族を売ったも同然です。(実際にそういう描写があるわけではないですが、次のシーン展開からそう思わざるを得ない)
これについては単純におばあちゃんに失望したこともあれば、自分の居場所を知っていながら迎えにも来なかった実の両親の態度で、どこか心が折れたという感じなんでしょうか。でもそれはそれで、終盤で亜紀がどういう生活に戻ったのかを示して欲しいと感じました。
終盤で当時の家を覗きに来た亜紀の身なりは実家に戻ったと思えるような装いにも見えますが、それ以外の描写がないので最終的にどこにいったのか分かりにくい。自分を迎えにこなかった両親の元に戻ったのだしたらストーリーとして矛盾を覚えます。
亜紀の右手
もう1つ気になったのは、事情聴取の中で見える亜紀の右手に見えるアザです。4番さんとの会話を鑑みると、自分に苛立ちを覚えて自分を殴ったということなんでしょうが、翔太が怪我をしてから聴取を受ける一連までの中でそんな出来事があったかというと、無い。
おばあちゃんが実家にお金を貰いに行っていたと聞かされた後に殴ったのならまだ分かるのですが・・・。
ラストのラスト
りん(じゅり)がアパートの手すり越しに何を見つめ、口をふわっと開けたところで作品は終わります。これもよく解らなかった。虐待を繰り返す母親が帰って来たにして視線が高いし、もっと遠くを見つめているように見える。でも何かはわからない。普通こういう描写だと、「これかもね」「あれかもね」が出てきて、どれでも辻褄が合うパターンから「どれだろうね!?」となるのですが、そういう候補すら上がってこない。
このシーンについて他の人がどんな風に思っているか気になるところです。
韓国の『パラサイト』と比べて
2019年に第72回カンヌ国際映画祭のパルムドール、アメリカのアカデミー賞でも4部門受賞した韓国のブラック・コメディ・スリラー映画『パラサイト』も同じタイミングで観たので、私の中では貧乏を描いた作品として自然と比較していました。私に限らずそういう人は他にもいるはず。
ネタバレになるので詳細はここでは伏せますが、『パラサイト』の場合、笑いからスリラーまで色んなものが詰め込まれていて凝縮感があり、社会構造や固定化された目に見えない身分階級の実態を突きつけられるし、間違っているのは個人ではなく社会構造だと思わされます。描写自体はミクロだけど、訴えていることはマクロ的。
一方、『万引き家族』にはそういうメタ的というか、大きな背景が見当たらない。これについてはどっちが正しいとかはありません。
ただ、『パラサイト』のほうが圧倒的に序盤からのテンポが良くて没入感がありました。貧乏な世界と裕福な世界を行ったり来たりする明快さも手伝っているかもしれません。『万引き家族』はどの場面も基本的にずっと下町で、画変わりしないので飽きが来やすかったのかもしれません。
ちなみに、パルムドールとアカデミー作品賞を同時に受賞したのは、1945年の『失われた週末』に次ぐ1955年の『Marty』以来だそうです。そう聞くとこの2つも観てみたくなってきますね!
- 『失われた週末 (1945)』
あらすじ:主人公はアルコール依存症の売れない小説家。酒を切らして右往左往する中で物語は展開していく。
- 『マーティ (1955)』
あらすじ:心は優しいが太った不男マーティが出会いを求めて行ったダンスホールで、容姿のせいで男から置き去りにされたクララと出会い、二人は意気投合する。
助成金と祝意の辞退の是非
これは本編とは関係の無い話。
「万引き家族を制作するにあたって文化庁から助成金を貰っていたのに祝意を断るとは何事だ!」と騒がれるニュースがありました。
是枝監督が戦前に起きたことを思って政府と距離を取ろうとしたこと自体については「賢明」の一言です。特に「助成金を貰っていながら断るとは」みたいな物言いをする人が一定数いる本邦なら尚更。
これについては、万引き家族ができる以前の是枝監督へのインタビューでも「国威発揚としてオリンピックを捉えるのとまったく同じ
」と危惧していたことが現実化したかのような展開です。
「祝意を断るなら最初から助成金を受け取るな!」というおかしな人までいるわけですが、その道理が通ってしまうなら、「現政権の給付金を受けたら次の選挙でその党に投票しなくちゃいけない。入れないなら受け取るな」みたいな話と全く同じなわけで、どう考えてもそれが健全とは思えません。
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