映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)のラストの笑顔の謎と考察

2023年12月4日

マカロニ・ウェスタンの巨匠セルジオ・レオーネの遺作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』にまつわる描写や謎について考察してみました。
この記事は感想編の続きであり、ネタバレ前提となっていますのでご注意ください。

2つの大きな謎

大きくは次の点についての考察です。

  • ラストシーンの不気味なまでの笑顔
  • マックスは死んだのか

ラストシーンの笑顔

ヌードルスがラストシーンで見せた不気味なまでの笑顔。意味深なこのエンディングは今でも視聴者を困惑させ、この映画の最大の関心事になっているように思います。

半生の裏返し説

これは、私が尤もだと思う説です。苦悩の果てに、逆に笑顔になったということ。もっと正確にいうと、「少年時代も含めてこれまでの人生全てが苦痛だったことを集約した、幸福を抑圧されてきた裏返しの表現」だということです。

映画全体を通してヌードルスが笑顔になるシーンは本当に少なくて、あるといえば少年時代に船の上でマックスと抱き合った時とか、出所後に皆と再会した時くらい。しかもなりふり構わず心の底から笑っているかというとそうでもない。
少年時代のヌードルスはパッツィと同じアパートの下階に住んでいるらしい。家に帰れば父は祈り、母は泣くだけで、電気も止められた家に帰るくらいなら便所で本を読んでいる方がマシだという過酷な生活環境です。この本はジャック・ロンドンの『マーティン・イーデン』=「貧しい下級労働者が作家に大成するが、最後は色んな意欲を失う物語」。

更にドミニクを失い、12年も服役。大人になってもギャング稼業。デボラにも振られて、最後はモーを除く仲間全員と恋人のイヴも失う。どう考えても地獄の連続です。そして「それらの苦痛・苦悩の反対側にあるもの」がアヘン窟で見せたあの笑顔なのではないか、と感じたのです。

夢オチ説

これは単純な夢オチだということではなく、「夢オチかどうかすらも分からない」=「何が本当か分からない」ということのメタファーだとする説です。例えば、病院で赤子を入れ替えて誰が誰か分からなくなること、マックスが死んだと思ったのに生きていたこと、目まぐるしく変化していくアメリカ社会がまるで夢幻のようだということと重ねているという説です。

でもそれでは映画が意味を成さないと思うんですよね。これは夢オチ設定の映画自体がナンセンスだという意味ではありません。

「何が本当か分からない」という描写が映画のなかにいくつも意図して描かれているのは確かですが、これは最終的にマックスがヌードルスの人生を乗っ取ったことに掛けている布石に過ぎないと思うんです。

ゴミ収集車、生死不明のマックス

ラストで、タキシード姿の男性とヌードルスの間をゴミ収集車が通り過ぎると、彼は姿を消しており、彼がマックスかどうかもはっきりしない描写です。実際、このシーンの男性はマックスを演じたジェームズ・ウッズではないそう。

そして「死んだかどうか」でいうと、マックスはヌードルスの見えないところで死んでいるでしょう。映画のバージョンによってはヌードルスが邸宅を出た後に銃声が聞こえるらしく、これはマックスが自身を撃ったか、或いは刺客によって始末されたか。この映画には再編集完全版、エクステンデッド版などがありますが、どのバージョンにしても、マックスは死んでいるor死ななければならない立場にいて、マックスにもその覚悟があると捉えるのが自然です。

ネットで見かけた無理のある説

なぜマックスはヌードルスを呼び寄せたのか。これについて深読みしすぎて見当外れな説を唱える人が結構いることに驚きました。あまりにもバカバカしくて聞いていて腹が立ったのであえて紹介しています。読み飛ばして下さい。

ヌードルスを替え玉にしたい説

ヌードルスに渡した拳銃には暴発する細工が施してあり、ヌードルスに事故を起こさせてその死体をマックスの替え玉にして生き延びようと画策している説。

かなり無理がある説です。ヌードルスがとても優秀・有能であることはマックスが一番よく分かっているはず。立派なお墓まで立てたのに、自分が生きていたことを明かすメリットがないどころか、あまりにリスキーです。第一、わざわざヌードルスを替え玉にする必要がありません。また、発砲音がすれば誰かがすぐに駆けつけるはずで、その短時間に顔も背格好も似つかない人物を替え玉に仕立てようがありません。

ヌードルスを証言者に仕立て上げる説

ゴミ収集車に身を投げた姿をヌードルスに見せることで、死の証言者に仕立て上げるという説。

これも無理がある。ヌードルスが誰かに対して「ぼくが目撃しました。ベイリーさんは死んだよ」って言うんでしょうか。んなアホな。
仮にそんなことが起こったとしても、追われているヌードルスが証言するわけもないし、誰かの証言が欲しいならそこらへんの人に金を握らせる方がよほど手っ取り早い。また、ヌードルスは「マックスが死んだと思ってた」のに、「実は生きていました」、からの「でもいま死にました」をヌードルスに見せることには論理性のカケラもありません。第一、ゴミ収集車に誰かが巻き込まれた描写すらありません。

また、ジャック・ロンドンの『マーティン・イーデン』の物語に描かれている栄枯盛衰をなぞらえたシナリオから逸脱しています。

その他の考察

逃亡前の駅の「コニーアイランドへ行こう」

最初観たときは、なぜ駅の壁面でコニーアイランドが強調されているか不思議だったんですが、コニーアイランドはヌードルスの恋人イヴが襲撃された場所らしい。また、バッファローという地名でおそらく最も有名なのはカナダ国境、五大湖に近いバッファロー市ですが、このバッファローという地名はアメリカにはたくさんあり、ヌードルスが実際どのバッファローに行ったかは不明です。

チケットを売る駅員はセルジオ・レオーネのカメオ出演なのか

「長らくセルジオ・レオーネ監督がカメオ出演していると思われていたが実際にはJoey Faye(ジョーイ・フェイ)」という情報があります。(Source)ジョーイ・フェイは、作中でヌードルスが出所後に車に乗り込み、マックスから「(女が)生き返った」と話し掛けられて立ち尽くす男性でもあります。
確かに、レオーネ監督は凄く出っ張ったお腹と野太い声なのに、駅員の身体は細く、声は甲高くてジョーイ・フェイの声とソックリです。

ヌードルスが読んでいた本

『マーティン・イーデン』

『マーティン・イーデン』(1909年)は、著者ジャック・ロンドン自身をモデルにした自伝的小説。イタリア・ナポリの貧しい船乗りマーティン・イーデンは上流階級の女性エレナに出会い、彼女の美しさや知性に惹かれるとともに文学に目覚め作家を志し、苦難を乗り越えて富と名声を手にするが、やがて若き日の情熱を失っていく物語。

ジャック・ロンドン

1876年、アメリカ・サンフランシスコ生まれの作家。アザラシ漁船の乗組員、工場労働者など多くの仕事に就いた後、『野性の呼び声』で一躍流行作家となる。世界的な名声を得たが、1916年に40歳の若さで急死。

この本の顛末や、著者ジャック・ロンドンの生涯は、欲望を剥き出しにするも最後は何も残らなかったと悟ったマックスの性格や人生と重なります。

パッツィ少年はなぜケーキを食べたのか

「子供だから性欲より食欲が勝っちゃったのね、カワイイ」とか「パッツィはポンコツだから食べた」みたいな意見も見られるんですけど私は全然そうは思っていません。食べるのもやっとの苦労する生活の表れだと思うんですよね。パッツィがポンコツであることは否定しませんが。

ヌードルスが服役中に考えていたこと

  • デボラのこと
  • ドミニクの最期

貸し切りのレストランのあと、デボラに対してヌードルス本人がそう言っています。

旧約聖書の「雅歌」(デボラのこと)

旧約聖書の「雅歌」の第7章。

少女時代にデボラが詠んだのが次の詩。本来この歌は男が女を褒めちぎる歌なのですが、作中ではデボラが読んでいます。また、実際にはもっと長い歌なのですが、かなり意訳というか要約されています。「鳩の目」は4節にある「ヘシュボンの池」の意訳でしょうか。

我が恋人は輝き その肌は純金のよう
その頬は香り草の花床 例え体を洗ってなくても
その目は鳩に似て 肉体は輝ける象牙
脚は大理石の柱のよう ズボンは汚れていても
そのすべてが愛しい

大人になったヌードルスは砂浜で次の節を詠んでいます。これは第7章の2節や8節です。

そのヘソは酒満つる丸い杯
その腹はユリが囲む小麦の山
乳房はぶどうの房
その吐息はりんごのように甘く香る

「滑った」(ドミニクのこと)

死ぬ間際、ドミニクはこう言いました。英語でも「I slipped」と言っています。

なぜヌードルスは獄中でそれを考えていたのか。最も身近な仲間が眼の前で死んだからというのは勿論ですが、それはヌードルスが一番評価していた人物だったからではないでしょうか。ドミニクは一番幼いようですが、パッツィやコックアイと比べて優秀に見えます。

  • マックスと初めて会うシーンで窃盗(ロール)する前に背面の警察に気付く
  • 真っ先にバグジーを見つける
  • 率先して「塩で回収作戦」のセールストークをする

後のシーンのパッツィやコックアイを見ても分かりますが、正直いって頼りない。マノルディの前でも、マックスの前でも、この2人は格上だと感じる相手に合わせるだけのヒラメ・キョロ目で、如何にも下っ端のオーラを放っています。ダイヤ強盗後にジョーを始末する時はヌードルスが戻ってきたらパッツィが小便して乗り遅れそうになる。また、アイエロ警察署長の長男を病院で入れ替えたときもそのリストをパッツィが紛失。仲間ヌードルスの出所日もこの2人だけが知らない。

そしてバグジーに撃たれる前、本来ならバグジーに一番近いドミニクこそが真っ先に隠れるべき立場のはずですが、ドミニクだけが道を真っ直ぐ逃げています。まるで皆を守るため囮になっているみたいに。そして途中で隠れようと思った、だけど滑ってしまい撃たれてしまった。(それとこれは勘ぐりすぎかもしれませんが、このシーンでコックアイがドミニクに追いつかれてもまだ隠れられずにいて、コックアイのせいで囮時間が長くなったとさえ思える。)そんな立場に立たせて死なせてしまったドミニクに対して、ヌードルスはずっと申し訳ないと感じていたのではないか。

懲役4344日

帰ってきたヌードルスにデボラは「4344日、4343日、」と数えた話をしています。つまり刑期は約12年。
出所は1930年なので、逆算すると事件発生は1918年頃。

ヌードルスの年齢
年代年齢出来事
1903-1904年0歳誕生
1918年14-15歳初期メンバーで少年ギャングを結成
1918年14-15歳バグジーを刺して逮捕、服役
1930年26-27歳出所
1933年29-30歳逃亡、ロバート・ウィリアムズと名乗る
1968年64-65歳年老いて戻ってくる

ヌードルスの誕生年は明確ではありませんが、1905年生まれのマックスと体格も同じくらいでリーダー格を担えること、少女時代のデボラが15歳という設定だったことを踏まえると1903年生まれではないかと推測しています。
また、英語版Wikipediaによると出所は1930年、日本でのTV字幕では1931年とありますが、1931年ではヌードルスの誕生年の辻褄が合わなくなってくるので1930年ではないかと考えられます。

デボラのレイプシーン

この暴力的なシーンについては当然非難があったわけですが、レオーネの演出についてこんな意見があります。

リチャード・ゴッデン(作家)

articulates the dysfunction between bodies in images and bodies themselves.

Eberwein, Robert; Bell-Metereau, Rebecca (2010). Acting for America: Movie Stars of the 1980s. Rutgers University Press. ISBN 978-0-8135-4760-2.

つまり、「2人の関係が機能不全に陥ったことの表現」だと擁護し、デボラを演じたエリザベス・マクガヴァン本人もこの意見を支持しています。

クリストファー・フレイリング(学者)

… like small boys obsessed with their equipment who have no idea how to relate to flesh-and-blood women.

Frayling, Christopher (2012). Sergio Leone: Something to Do with Death. Minneapolis: University of Minnesota Press. ISBN 978-0816646838.

「自分の所有物だけに夢中で、生身の女性との接し方が分からない少年のよう」と。たしかに。当時ヌードルスは29歳前後ですが、少年時代から12年も獄中で過ごし、ギャングの仕事しかしてこなかったヌードルスの精神が若いままというのは、浜辺でのデボラとの会話にあります。「何もしないから時間は止まったままだ」と。

ちなみにこのシーンの運転手には、当時エリザベス・マクガヴァンと交際していた同映画のプロデューサーであるアーノン・ミルチャンがカメオ出演しています。

アーノン・ミルチャン

イスラエル出身の映画プロデューサー。ユダヤ人。『Mr.&Mrs. スミス』、『プリティ・ウーマン』、『ファイト・クラブ』などを手掛ける。
エルサレム・ポストによる2010年のランキング記事によれば純資産は36億ドル。イスラエル諜報機関のため、同国核開発計画に協力する兵器ディーラーとして働いていたと告白したことがある。

入れ違いで病院に現れる男=フランキー・マノルディ

ジミー・オドネルを見舞ったマックスとヌードルスが病院を出ると同時に入ってくる黒ずくめに白いマフラーをした男はフランキー・マノルディ。ヌードルスが出所後にモーの店の1階で会わされたボスです。

音楽は急に不穏になるものの、あまりにチラっとすぎて分かりにくい。実はここでジミー、シャーキー、フランキーが対談して、マックスを神輿として担ぎ上げていくことを画策しています。

そっくりなイヴとキャロル

マイアミには金髪のマルセルウェーブの女と男のカップルが2組。ヌードルスの女「イヴ」とマックスの女「キャロル」はあまりに容姿が似すぎていると思いませんか。普通に考えれば、それぞれの女を識別しやすくするために違う格好にしそうなものですが、2人は化粧も髪型も髪色もそっくりです。そっくりな女を持つギャングの男が2人。

この直後、マックスはヌードルスの人生を乗っ取ります。上の「夢オチ説」でも触れましたが、これはその一部です。つまり「ここを境にして2人が入れ替わっていく」ということの記号的な表現ではないでしょうか。

「◯◯が◯◯へ」の構図

こういう構図がとても多い。

  • 大金が入っていると思っていたカバンの中身が新聞紙へ
  • 沈んだと思わせた密造酒が水面へ
  • 溺れたと思ったマックスが船上へ
  • 死んでいると思った若い女がマックスからのご褒美へ
  • 我が子だと思っていたアイエロの長男が他人の子へ

これらはすべて、「死んだと思っていたマックスがベイリー商務長官へ成り代わっていたこと」、「ヌードルスの人生がマックスの人生と入れ替わること」の比喩ではないでしょうか。

数字に隠された意味

ちょっとここらへんはこじつけと言われても仕方ないのですがお付き合いください。

トラックの数字「35」

最後に登場するMACK TRUCKS製のゴミ収集車には「35」という数字が書かれています。多くの人の見立通り「過去35年」ではないでしょうか。だとすると、他に登場する数字にも意味があるのではと勘ぐってしまいます。

金庫番号「541」、「636」

逃亡前にヌードルスが開けた金庫の番号は「541」。これはfive four one = five for one(5人は1人のために)とも読めます。お金はすべてマックスが持ち去ったのですから、マックスを含みモーを除く5人、或いはマックスを除いたモーを含む5人とも解釈できます。つまり、「1人のために他の全員は犠牲になれ」ということです。

また、年老いたヌードルスが開けた金庫の番号は「636」。マックスと2度目に会って時計を盗み返し、それをホワイティ巡査に「盗んだな」と言って取り上げられたのが6時36分です。しかもその直後、マックスはホワイティ巡査に対して「俺がやった」と言っているんです。まるで将来のヌードルスの人生について話しているようです。偶然にしては出来すぎていやしませんか。

結局、何を描いた映画なのか

本作には愛、友情、ギャング、アメリカの変遷、栄枯盛衰、人生など色んなテーマが織り交ぜられていて、一言では表現できないものがありますが、私としては「過去と向き合い、過去を整理し、過去の自分にケリを着ける映画」だと感じました。

地獄のような少年時代

私はこれを「青春映画」だとは思っていません。上でも書きましたが、彼の生活環境は非常に過酷です。更にドミニクを失い、12年も服役。しかも15歳というのはこれから青春が始まる年頃なのに彼は監獄に入るんです。仲間とつるんだりデボラとチューしたくらいでこれを「青春映画」と呼ぶには流石に無理があります。

マックスからの依頼「10時25分だ 失うものは何もない」

もうひとつ「ケリをつける映画」だと感じた理由はマックスからの依頼です。マックスはヌードルスから金も女も友人も奪ったものの、最後はシンジケートに狙われる運命を辿り、「10時25分だ 失うものは何もない」と言っており、結局は何も残らなかったことを自覚してます。まるでヌードルスが便所で読んでいた『マーティン・イーデン』の栄衰のようです。

三者三様、過去との向き合い方

①デボラは、表口を開けずに裏口から去るようにヌードルスに迫る

デボラはまだ過去から逃げているように思えました。もしデボラに過去から逃げるつもりがないなら、息子を紹介し、ベイリーの正体を明かし、ヌードルスがどう反応しようがそれを甘んじて受け入れるはずではないでしょうか。

②マックスは、銃で撃つようにヌードルスに迫る

マックスは過去と向き合おうとしているようです。また、映画のバージョンによってはヌードルスが邸宅を出た後に銃声が聞こえる(らしい)。つまり、ヌードルスに断られたために「自分でケリを着けた」と捉えるのが妥当ではないでしょうか。

③ヌードルスの立場では、2回の選択があったことになる

デボラの時は表口か裏口かの選択。そして表口を開けて真相を受け入れました。マックスの時にも撃つか撃たないかの選択。そしてマックスを撃ちません。デボラとマックスを赦し、過去と決別した表れだと感じました。

完全版ではトラックが過ぎた後にヌードルスが立ち尽くす姿から過去のシーンへ逆行しますが、「もしかしたら彼はトラックと反対方向に歩き出したかも?」、そう思わされます。
また、映画のバージョンによってはヌードルスが新たな生活を送る描写があるらしく、それこそ、過去と決別して新たなスタートを切った描写そのものと言えるのではないでしょうか。(ほんまにその描写があるか知らんけど)

上の考察はあくまで私の考えに過ぎませんが、いずれにしてもラストの三人それぞれの言動や気持ちに寄り添ってみる、思いを馳せる、それがこの映画の楽しみ方ではないかと感じました。映画を観終わったあとでもここら辺の妄想でしばらく楽しめます。

下記アーカイブでは完全版でカットされたワンシーンを見ることができます。イヴとヌードルスが敵の襲撃に身構えている様子です。
https://web.archive.org/web/20110610164934/http://thefilmforum.8.forumer.com/viewtopic.php?t=2957