映画『この世界の片隅に』を見た感想「あれは改悪や」
アマゾンのプライム・ビデオで、2016年に日本で初公開されたアニメ映画『この世界の片隅に』が会員特典として無料公開になっていたので観ました。
概要
タイトル | 原題 | 年代 | ジャンル | 時間 | 国 | rating | 制作費 | 売上 | 監督 |
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In This Corner of the World | この世界の片隅に | 2016年 | 歴史 | 129分 | 日本 | G | 2.5億円 | 27億円 | 片渕須直 |
あらすじ
1944年(昭和19年)、太平洋戦争(第二次世界大戦)の最中、主人公すずは18歳で広島市江波から呉市に嫁ぎます。
戦争が終局を迎えるにつれて食べ物・物資が不足して困窮していくなかで、彼女たちは工夫を凝らしたり、笑いを忘れずに懸命に生きていきます。
感想
心には響く、でも感動とは違う
これを見ると、胸を締め付けられるような思いをします。防空壕のシーンはその1つです。(他にもありますけどネタバレになるので言いませんが。)
映画を見てどんな感想を抱くかは人の自由ですが、少なくとも「こんな世界にも笑いがあって、いいね!」とか「やっぱり戦争はやっちゃだめだよ」みたいな生ぬるいものに留まりません。
テーマがテーマだけに、賛否両論あるとは思いますが、ネタバレしちゃう前に言っておくと、とにかく見る価値はあります。そして見た甲斐があると思える作品です。
無責任さと虚しさ
で、ここからネタバレを含みます。(早速かーい)
私が一番抱いた気持ちは「人間はつくづく無責任やな」です。映画では、すずが太極旗(韓国の国旗)が近隣の家に掲げられるのを見たあとに泣き崩れるシーンがあります。こう言っています。
飛び去っていく
うちらの
これまではそれでいいと思ってきたものが
だから我慢しようと思ってきたその理由がああ、海の向こうから来たお米、大豆 そんなもんで出来とるんじゃなぁ、うちは
じゃけぇ暴力にも屈せんとならんのかねぇ
ああ、何も考えんぼーっとしたうちのまま死にたかったなぁこの世界の片隅に
でもたぶん、多くの人がこれについてちょっと「?」だと思います。予備知識の無い人が「?」となるのはもちろんですが、表現の仕方もちょっと足りないように感じます。原作と比べてもセリフや描写が変わっていて分かりにくくなっています。
当時、日本は韓国や台湾などを植民地化していて、そこから物資を供給(搾取)していました。すずは国旗掲揚を見て、そういう米や大豆で自分の身体は作られているのだと改めて実感するわけです。その国旗掲揚は、近所にも在日韓国人が住んでいて、終戦によって自国旗を掲げることが許されたことを意味します。
三億の巨資を投じ鮮米の増収計画 東洋拓殖会社は内地食糧問題の解決に資すべく朝鮮所在土地の開拓計画に着手したが
中外商業新報 1924.12.6 (大正13)
これは1924年12月6日の記事ですが、終戦から20年以上前からこういうことが行われていたわけです。
- 広島原爆の韓国人被害者数
調べてみたところ、徴用工なども含め、広島には多くの韓国、朝鮮の人が住んでいたようです。
羽根幹三氏のModern Japan: A Historical Surveyによると広島原爆の韓国人被害者数は2万人で、これは広島原爆の総被害者数 約14万人の14%(7人に1人)に相当します。
原作からの改悪
2019年8月3日、地上波で初めてこの映画が放送されました。それを期に、私は原作のクライマックスシーンを知りました。原作を知ると、映画版のセリフはかなり違和感があるし、映画版は原作からの改悪だとはっきりと言えますね。
バージョン | セリフ |
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映画版 |
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マンガ原作 |
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まず、原作のほうが予備知識の無い人にとってもストレートで分かりやすい表現です。そして、民間人が被害者であると同時に、民間人でさえ加害者の一端を担ってきたことについてもより真正面から見つめているのではないでしょうか。
自分たちが暴力によって植民地支配した地域から搾取をしている、だから同じ穴のムジナで、アメリカ(連合国軍)から同じように暴力を受けても文句の言える立場には無いのだと。そして自分たちがやってきたのはただの暴力だと。彼女は植民地支配下の人と同じ目に会って初めて間違いに気づくのです。愛国心をこじらせた成れの果てです。でも映画版の表現はこの点について非常に分かりにくい。
相対性理論で有名なアインシュタインは、ナショナリズムは小児病である それは国家の麻疹であると言っています。
Nationalism is an infantile disease. It is the measles of mankind.
Albert Einstein
映画を見る限りでは、すずは国と一緒になって戦争に賛成してきたように見てとれます。たとえ戦争に直接参戦していなくても、義父 円太郎や夫 周作は呉鎮守府や工廠で働き、すずもそれをサポートしている、結局みんな兵站を担った加害者なのだという意識がすずにはあるようでした。
日本における戦争描写、特に市井を描く多くは被害者目線で、決して加害者として描かれることはありません。その点、このシーンにはとても新鮮さがあり、本質をえぐり出しているように思います。
人が戦争に放り込まれると、幼いときからのほほんとしてきた18歳の無垢な女の子でさえこんなふうになってしまう。
じゃあ誰かがすずの右手を返してくれるのか、責任を取ってくれるのか、誰も取ってくれない。植民地化した地域の人達に誰が償いをするのか、誰もしない。ただの暴力だと悟ったすずでさえ、今まで戦争に勝つために頑張ってきたのと同じだけの償いを誰かにするのか、しない。
もっと言うと、一番の被害者は晴美ちゃんみたいな幼い子どもですよ。母親の径子さんはよく耐え忍んだな、と驚くばかりです。
どの視点に立っても、結局みんな無責任。そして虚しさだけが残る。そういうことを強く思わせる映画です。
作中ではシリアスなシーンに移行するまで、苦しい生活の中にも笑いや楽しさを忘れない姿が対照的に描かれています。でも戦争さえ無ければ、彼ら彼女ら、戦争に巻き込まれた人々、植民地の人々、世界中のどの国の兵士たちも笑って過ごせたはずなんです。
日本では、存命中の高齢の方々は頑なに「戦争反対」を言い続けます。幼い頃は私も祖父母からよく戦争の話を聞かされました。戦争を実際に経験したからこそでしょう。
以前、Buzzfeedで林家三平さんの国策落語「出征祝」の記事を読んだんですけど、2代目 林家三平さんは敢えて戦争を賛美するという真逆のアプローチをすることで人の心に訴えかけようとしていて、この作品にもそれに通ずるところがあるなぁと感じます。
他人に対する思いやりの浅さ
(75分頃)
昭和20年3月31日の話。上長之木鄰保館(隣保館:劣悪な地域において、知識人が常駐し、地域住人に対して適切な援助を行う社会福祉施設)の前で17歳の青年が出征するのを皆で祝うシーンがあります。彼は広島原爆に被爆し、後に鄰保館の壁によりかかりますが、母はそれを見ても気づきませんし、何か手当をしてやろうともしません。
(84分頃)
防空壕から出て、家が壊れた人に「水を貰ってもいいか」と聞くシーン。普通ならこんなタイミングで声を掛けられないので違うところで何とかしようと思うはずです。でも聞いてしまう。結局、人間はこんな差し迫った状況になると、大事なのは自分とその周囲の人だけで「あとは知ったこっちゃ無い」となってしまうのだなぁと。
(109分頃)
上で紹介したすずが泣き崩れるシーン。すずはここに来て初めて自分たちのしてきたことが暴力だと悟っています。
これらは正に、他者に対する想像力の欠如です。どんなことでも相手の立場に立ち、それが自分の身に降り掛かっているという感覚はとても大事だなぁと感じます。
言っていることではなく、やっていることを見ろ
ここからはちょっと余談ですが、戦争に関連してちょっとだけ触れておきたい話がありましてね。チキンホークという言葉をご存知でしょうか?
- チキンホーク(Chickenhawk)
チキン=臆病、ホーク=鷹(派)を合わせた言葉。戦地にいった経験がないものの、戦争には肯定的なタカ派のこと。
どこの国でも、戦争を肯定したり勇ましいことを言って人気や票を集める政治家、本を書いて銭儲けをする輩がいます。じゃあ彼らが戦地に行くかというと、絶対行きませんからね。
戦争がどれだけ悲惨なことかは経験すれば分かるはずで、(いや、まともな知能があれば経験しなくても分かるはずなんだけど)経験していない人や想像力の乏しい人に限ってタカ派になりやすいんですよね。だから、反戦色の強い政党が敢えて徴兵制を望むということもある。(兵役で戦争を疑似経験すれば、誰もが戦争を嫌がるだろうと考えているからです。それで兵役を強要するのはどうなんだい、とは思うけど。)
別にこの話に限らず、人生でどんな人を信じるべきか、どんな人と付き合うべきか。私はその人が言っていることではなく、やっていることを見たほうが良いと思うんですよね。人間、クチでは何とでも言えますから。
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