『きみに読む物語』を観た感想

ロマンティック・コメディ

アメリカ映画、きみに読む物語(原題: The Notebook)を観ました。

あらすじ

療養生活を送る老婦人の元に通う年老いた男性は、彼女に物語を読み聞かせます。それは、1940年の夏、アメリカ南部の小さな町で始まる恋の物語です。

夏休みにだけこの村に家族でやってくる17歳の令嬢・アリー(レイチェル・マクアダムス)は、地元の製材所で働く青年ノア(ライアン・ゴズリング)の片思いからやがて両思いの熱い恋に発展します。

しかし2人の境遇が全く違うことから、将来を案じるアリーの両親は交際に反対し、アリーは突然都会へ連れ戻されて2人は離れ離れになります。ノアは毎日手紙を書きますがアリーから返信もないまま、アメリカは第2次世界大戦に突入します。

路上ダンスの歌

聞いた瞬間、「あ!ビリー・ホリデイの歌声」と思って歌詞を聞き取って調べてみるとこの曲でした。

Billie Holiday – I’ll Be Seeing You (1944)

ネタバレ含んだ感想

ネタバレを含まない感想を別に用意したいところなのですが、この作品自体が冒頭からネタバレ全開なのでネタバレありきで書きますね。(というかほぼダメ出し)

冒頭5分くらいでオチまで大体読めてしまうのはちょっと問題があるんじゃないかと感じました。映画の評価について「構造でどうこう」とはあんまり言いたくはないんですけど、展開がモロバレなのはやっぱり残念な部分だと感じました。

「この流れでいくと、このパターンか、あるいはこのパターン」と、全てが読めてしまいます。あらすじどころか、些細なやりとり全てのおいてです。例えば・・・

冒頭でデュークが「命がけで ある人を愛した」と言う

この時点で彼が主人公だと位置づけられる。

冒頭でデュークがアリーの部屋に入った時

直後に、ふさぎ込んでいた女性がデュークには挨拶をする。つまり2人は特別な関係だと分かる。

デュークという名前は出てくるが女性の名前は明かされない。そして話は1940年に遡る。この時点でもう過去の話はこの2人の思い出話なのだと容易に想像がつく。(きっと誰でもそう思う。なのになぜ女性の名前を伏せる?)

路上で寝転がってて車が来る

彼女が絶叫する。(でも叫び方の下品さに引いた)

真夜中にウィンザー農園に行く

(あ、イチャコラが来る。)

急ごう、嵐が来る

ああ、びしょ濡れで帰ってきてイチャコラだね。

ロンと別れて再びノアの元へ戻る

突然の感動BGM。「はい、ここ盛り上がるとこねー」という主張が臭すぎる。

ラスト直前で「私はコーヒーをいれてくるわ」

このセリフだけで十分「見逃してあげる」という意図だとデュークも観客も分かるはず。それなのにデュークにマグカップを取らせて見せる。とても説明的で余計な描写。

アリーを口説くノアの言葉に重みがない

彼はアリーを口説いた時に「普段はこんなじゃない」と言っています。アリーと別れた後の彼の荒れようを見ればそれは納得できます。でも映画でノアが登場してからそのセリフを言うまで彼はずっとそんな調子なので、彼の熱意に全く重みを感じることが出来ないんですよね。

「普段はこんなじゃないノア」を事前にもっと描写する必要があるのではないか?と感じます。

1年間まるっきりポストを確認しないアリー

アリーは街を去るとき、フィンから「話したきゃ手紙を書く」と諭されます。それからノアは365日、毎日手紙をアリーに送っています。

手紙はアリーの母親に全て隠されましたが、アリーは手紙が来てないか確認したことがなかったんでしょうか?普通ならいてもたっても居られず、確認するはずです。ノアが返信を待ったように。でもしなかった。

だって母親は交際に反対していたんですから、なにか細工をされるかもしれないと懸念するのが普通ではありませんか。そういうのを見ると、これが本当に「熱い恋」と呼べるのか?と感じます。

アリーの絵画とピアノ演奏に印象

彼女は絵画を描くし、ピアノも弾きます。

ロンと付き合ってからは絵画を描かなくなっていたのに、ノアの家に来たら自分のアトリエが用意されていて彼女はバルコニーで絵を描きます。そこはまだ良かった。ところがピアノにまつわる演出はイマイチでした。

過去に演奏した曲を現代で再び演奏することでそれにまつわるストーリーをリマインドさせる手法は、最近見た映画だと『ラ・ラ・ランド』でも見られました。『ラ・ラ・ランド』の場合は主人公がピアニストだということもあるかもしれませんが、とてもインパクトがありましたね。私は今でもそのメロディーが蘇ってきます。

ところがこの映画の場合はピアノ演奏の意味付けがとても弱い。弱すぎる。
過去、真夜中のウィンザー農園のピアノで弾いた曲は、アリーが老人になってからも「そら」で弾けるくらい思い入れのある曲です。それなのに、そのメロディーがしょぼいし、演奏もしょぼい。さっき観たところなのにもう思い出せない。

フィンは死ぬ必要があったのか?

ロンメル将軍を追跡したあと、パットン第3師団に配属されて雪原を進軍中に襲撃を受けて(一切の流血の描写なく)命を落とします。この話、要る???

アリーの恋と母の恋は違った

これは感想というより客観的な事実として捉えている話です。

アリーの母も、過去にアリーと似たような恋をしましたが、それは結婚するべき相手ではなかったとアリーに告白します。

じゃあ母はアリーとノアとの仲について今でも反対かというとそうでもないらしいです。だって、本当に心の底から反対しているのならノアの手紙を大事に保管したりはしないのでは?

きっと、母親は何年経っても変わらない2人の気持ちを見て、母自身の恋とアリーの恋は違う質ものだったということを母が認めたんでしょう。

手紙の意味付けが弱い

ピアノの話と同様、ノアからの365通の手紙はこの物語の1つアイテムだと思うのですが、どうもその存在感が弱い。

車の中でアリーが読んだ手紙に、もっと気持ちを変革させるセリフが込められていても良かったのではないか?と感じます。

本当の認知症の家族はあんな振る舞いしない

なぜ年老いたノアをデュークと呼ぶのか

アリーはアルツハイマー型の認知症なんですよね?

アリーは恋人のことをずっと「ノア」と呼んでいました。過去のことを思い出して欲しいのなら、看護師たちも「ノア」と呼ぶべきではありませんか?

なぜそう呼ばないかと言うと、「この映画の観客」に老婦人の正体がバレてしまうからです。私は、映画って「フィクションながらそこに物語が実在していて、『観客』がそれをそっと覗き込むもの」だと思っています。ところが、この映画の場合は「『観客』に観られていることを前提に作られている」という感じがとても強い。

娘や孫さえ他人行儀

私の祖母もアルツハイマー型の認知症でした。たしかにアルツハイマー型になると家族すら認知できなくなります。

でも家族がそれに応じて他人行儀にすることってあります?普通は「あなたは分からないかもしれないけど、私はあなたの孫なんだよ、覚えてる?」と一応話してみますよ。別居している家族なら尚更です。

恋物語としては悪くはない、が・・・

昔の思い出話として、アリーとノアという若い男女が熱い恋をしたという話としてはそこそこ面白いと思いますし、マーサ・ショーという未亡人の存在が意外にも大きな役割を果たしています。

ですが、映画全体としてはどうなのかなーというのが正直なところです。